回答
こんにちは。
こういう文章の解釈に長けた方がきっといらっしゃると思うのですが、心を惹かれる文章ですので、自分の解釈を述べてみます。
stunting ということばですが、例えば植物の種のように、発育や成長の可能性を秘めていて、環境や栄養が整えばどんどん自分のポテンシャルを現実化して最大限に育っていき死に至るまで一生を全うする、という可能性を秘めていても、環境的な要因や、栄養が足りない、などの理由で、充分にその種に込められたポテンシャルを発揮できないまま発育不全になってしまうようなことを指して stunting in life と言っているのだと思います。人間で言うと、乳幼児期に栄養失調だったり十全な保育環境になかったりすることで、人間として備わっているポテンシャルを獲得できないまま、病弱に育ったりしてしまうことだと思います。(この見方には、人間としてあるべき完璧な姿がある、五体満足な人間こそが完璧だと言う思想に基づいてある人を「不完全」であると観ることが本質主義的だ、という批判があるかもしれません。)
また、by 以下がどこにかかってるんだろう、と首を傾げるのですが、リズム感のあるまるで詩のような文章なので、誰かが思いついたまま言葉を口走っているような感じで読んでみることにします。前後の文章がわからないので書かれていること全体のコンテクストに合わないかもしれません。
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いのちに十全に与えられたポテンシャルの発露を阻まれることほど、悲劇的なことはこの世にそうはない。同じく、与えられた機会をバネにそこからさらに高みを目指したり、またそういう機会に恵まれさえすればと望むことさえも否定されてしまうことほど、不公正なことはこの世にそうはない。そこには「欠如」ということが強いる限界のみならず、すでに欠如させられたそのいのちに、あたかもそうしたポテンシャルの発露の機会や望みが内在し横たわっているではないか、という誤った断定がある。
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この文を読んでイメージしたのは、例えば激しい差別に会う人々のことです。同じ人間として生まれ、その発育や活躍の機会は「同じ人間」としていのちと言うレベルで平等に与えられているはずなのに、差別のせいでそのポテンシャルを阻まれる。そしてその差別は、そうした自分にあるポテンシャルについて機会さえあれば発揮できること、またそういう機会さえあれば、ということを望むことをも不可能にしてしまう。そういう状況に置かれた差別を受ける人々は、人間としてそれぞれに備わった本領を十全に発揮する機会に欠如しているだけでなく、存在する差別を都合よく無視して「あなたも同じ人間なのだから、頑張ればできるはず」などと言われて、差別のせいで奪われたポテンシャルを発揮していないのはあたかも本人のせいであるというようにとがめられたり誤解されたりする、というようなことを重ねてこの文を読みました。
全く見当違いかもしれないのですが、自分の解釈を載せてみます。